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大島渚逝世

大島渚逝世

2013年1月17日(木)付

 体制に抗し、タブーに挑む姿は、烈々と火を噴くように見えた。口をつく言葉も激しい。そんな大島渚さんを支えていたという言葉を知って、納得した覚えがある。「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処(どこ)にも光はない」

  反體制、闖禁區,大島渚的行事姿態令人有噴發熊熊烈火之感。他的言辭也是出名的火爆。知道了成為大島渚內心的支柱的這句格言之後,便都可理解了──「猶如生於深海的魚類,自己不燃燒,何處覓光明?」

▼ハンセン病を背負って生きた戦前の歌人、明石海人(あかしかいじん)の歌集の前書きに出てくる。大島さんは19歳のときにこの一語に出会った。以来胸に畳んできたと、かつてアエラ誌で読んだ。言葉通りにあかあかと燃えた、80年の生涯だった

  這句話出於身患麻瘋病的戰前詩人明石海人的歌集前言。大島渚19歲時讀到這句話,自此銘記於心。這是我曾經在雜誌《アエラ》上讀到的。大島渚人生八十年正如此語,堪稱明亮燃燒的生涯。
  

▼映画監督になるとは、夢にも思わなかったそうだ。松竹の助監督試験を受けたとき、映画がワンカットごとに撮られるのも知らなかった。採用5人に2千人の応募があったというから、ファンは採用担当者の眼力に感謝しなくてはならない

  大島渚當初似乎也不敢相信自己會成了電影導演。他去松竹映畫社考導演助理一職時,連電影是一格格拍出來的都不知道。那是報名五千人里只聘五人的招聘,大島渚的粉絲很該慶幸招聘人員的眼光獨到。

▼松竹の小津安二郎ら巨匠に反旗を翻したのはよく知られる。「喜怒哀楽」にたとえれば、小津映画が「哀」なら大島さんは「怒」の作風だろう。1960年代は、映画がテレビにホームドラマ調を譲り始めた時代でもあった

  大島渚對松竹的小津安二郎等電影大師揭揚反旗一事盡人皆知。用「喜怒哀樂」來作比喻,小津的電影作風若稱之為「哀」,大島的電影作風便是「怒」。十九世紀六十年代,正是電影把家庭溫馨劇讓給電視去做之始。

▼妻の小山明子さんによれば、結婚前の5年間に360通の手紙を交わしたそうだ。その1通に「世界に通用する監督になって、君をカンヌ映画祭に連れて行く」とあった。約束はしっかりと果たされた

  據其妻小山明子說,兩人結婚前的五年里來往的信札有360封之多。其中一封信中說:「我會成為國際化的導演,帶你一起去參加戛納電影節」。這承諾已完全實現。

▼「愛のコリーダ」「日本の夜と霧」――大島映画の数々は「問題作」と呼ばれてきた。その三文字こそが、自ら燃えた証しではなかったか。戦後という時代と切り結んだ映画人が、またひとり去って行く。

  《感官世界》、《夜與霧》──大島渚不少電影都被視之為「問題作」。這三個字不恰恰是他自我燃燒的證據嗎?屬於「戰後」這一特定時代的電影大師,又一個離我們而去了。
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